The History of the Disco (国内編) Vol.2

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The History of the Disco (国内編) Vol.2

 

1973年、国内では宮史郎とぴんからトリオの『女のみち』が大ヒット、ガロの「学生街の喫茶店」、沢田研二の「危険なふたり」、ちあきなおみの「喝采」、かぐや姫の「神田川」など様々なジャンルの音楽がヒットしていた時代。コモドアーズの「マシン・ガン」、オージェイズの「ラヴ・トレイン」、スリー・ディグリーズの「荒野のならず者」、ロバータ・フラックの「やさしく歌って」(コーヒーのCMにも採用)などアメリカのソウル情報もリアル・タイムに入ってくるようになり、次第にソウルやディスコという単語が一般的になって行きました。そんな中、前年にメジャー・デビューを果たした、アメリカのジャクソン5のヒットに強く影響された沖縄生まれの5人の兄弟、フィンガー5がお茶の間に大ヒットを連発していきます。沖縄出身で米軍基地周りで鍛えられた、アメリカのソウル・ミュージックの影響下の5人のフォーメーションを活かしたダンスを演奏し歌いながらパフォーマンスし、一躍時代の顔となりました。デビュー以来彼らの作詞を担当していた阿久悠はフィンガー5でも何曲も作曲を担当した都倉俊一と共に、アイドル歌謡でデビューした後人気が低迷していた山本リンダを、ダンス歌謡タイプの“どうにもとまならい”、“狙いうち”で大復活させます。へそだしルックと呼ばれた露出の多い衣装も話題でしたが何よりも扇情的な歌詞でセクシーに、激しく踊りながら歌うそのスタイルはアクション歌謡と呼ばれました。明らかにマンボ歌謡の時代からつながる、リズム歌謡の’70年代ヴァージョンがそうして次々にヒットし紅白歌合戦に出演するまでお茶の間に浸透していきます。

ジェームス・ブラウンも初来日したそんな73年、新宿と六本木に“Canterbury House”がオープンします。後に複数の店舗に枝分かれし、新宿の東亜会館を一大ディスコ・ビルへと変えていくきっかけともなる老舗ディスコもこの時期に生まれました。この頃、さらにディスコを広く浸透させる日本独特のダンス・カルチャーも生まれていきます。前述のTV番組ソウル・トレインの国内放送が始まり、アフリカ系アメリカ人のダンスも目にするようになってきましたが、どうしてもそんな風に身体を動かせないと畳の上で悩んでいた日本人がソウル・ミュージックに合わせて、簡単に踊りやすい方法が編み出されたのです。それは集団で繰り返しのある決まったステップを踏むという事でした。ステップ・ダンスと呼ばれた日本独特のダンスを広めた男が、前述の“The Other” から生まれた人気グループクック、ニック&チャッキーの故ニック岡井でした。彼は日本人でも振り付けさえ覚えてしまえば簡単にディスコで踊れるようにと、数多くのステップを生み出しました。それもディスコでのヒット曲と連動し細分化してき、Free Chachaと呼ばれた通称ハマチャチャは140種類のバリエーションまで存在したと言われています。彼がスタッフを務めていた新宿の“Get”はステップ・ダンスの総本山と呼ばれ、夜な夜な大勢の常連たちが集い一斉に同じステップを踏み出し、そんな姿に憧れる若者たちもが続々と詰め掛けこぞってステップを覚える、そんな独特のカルチャーが生まれいきました。ステップはあっという間に各地のディスコに広まっていき、後に原宿竹下通りの竹の子族やパラパラなど日本独特のダンス・カルチャーへと受け継がれていく事になります。ニューヨーク同様日本でもダンスとディスコは互いにシンクロし合いながら広く浸透していきます。

前述の六本木“Mebius” のヒットにより、60年代ゴーゴー喫茶の頃は新宿だった踊り場のメッカの様相も次第に変化していきます。74年に同じく六本木で同じニューヨークでもマンハッタンではなくハーレムにあるようなディスコをイメージした“Afro-Rake” が、そしてパリの社交界をイメージした豪華絢爛なディスコ“Castle” という真逆とも言えるコンセプトを掲げたヴェニューが次々に生まれます。“Afro-rake” の仕掛け人は70年代にイラストレーターとして数多くのレコード・ジャケットを制作し、DJ、ダンサーとしても活動していた江守藹。音楽はもちろんソウルやファンク、従業員は皆アフリカ系アメリカ人、食事のメニューもソウルフードという徹底ぶり、客も半数以上はアフリカ系アメリカ人で常連の日本人客の多くもアフロ・ヘアだったといいます。営業スタイルはアフリカ系アメリカ人のバンド演奏とDJとの混合型。当時人気のラジオ番組「オールナイト・ニッポン」のDJ、糸居五郎もDJとしてレギュラー出演していました。一方の“Castle” はジャン・キャステルがパリにオープンさせたフランス社交界の高級会員制ディスコの姉妹店としてオープンしました。初代マネージャーにはフランス留学から戻ってきた、27歳の岡田大貳が就任。内装は黒大理石を用いたゴージャス一色、入場するにはまず会員になることを義務付けられ、また来店の際には正装であることを課しました。当然会員の多くは外国人や大企業の役員連中、もしくはお金持ちのボンボン達。ディスコとしては斬新なその営業スタイルとこだわりは見事に当たり、当時“Castle”の会員権を持っていることは遊び人の大きなステータスとなりました。また“Castle” はその年に誕生した後に一大ディスコ・ビルになっていく六本木スクエア・ビルに登場した最初のディスコでもありました。

前述したアメリカで「ビルボード」誌がディスコ元年と認定した74年。東京にも他に様々な形態のディスコが生まれていきます。新宿に登場した“Tomorrow USA” は2,000人を超える収容する巨大なディスコとして大きな話題になりました。ダンス・ユニットが登場するショータイムや巨大なレース・カーテンが降りてくるチークタイムなど趣向も凝らしたヴェニューで人気を博しました。六本木には“Afro-Rake” の方向性を組む本格的なソウル・ミュージックがウリの“Embassy”がオープン。やはり客も横須賀や厚木から通うアフリカ系アメリカ人の米軍兵士たちと彼ら目当ての日本人女性たちがメインで、店員もアフロ・ヘアーと派手なソウル・ファッションに見を包み、やはり常連の日本人客も多くはアフロ・ヘアー。当時日本人が本格的なアフロ・ヘアーにするのは苦労も多かったようで、茨城のソウル・ファンの兄弟が経営し、特注だったという極細のロットで仕上げる「弦巻」という美容室が、“Embassy” の店員や常連たちにも人気の店となっていました。以前はディスコと言えば新宿を目指し、やって来ていた米軍兵士たちの足が次第に六本木へとシフトしていき、新しいディスコのステっプは次第に六本木からと言われるようになっていきます。

1975年5月、新宿に新たなヴェニュー“Tsubaki House” が誕生します。新宿テアトルビル5Fに登場したこのヴェニューは、面積628平米、客席数350席、総工費7,500万円という大型のものでしたが、そこにスタッフとして入った、後に“Turia”や“Gold”という伝説のディスコを次々にプロデュースしていく(元“Canterbury House”のスタッフでもあった)日新物産の佐藤俊博が新たな歴史を作り出します。オープン当初、人の入りが少なかった事から、彼は近くの新宿二丁目のゲイ連中を積極的に店に招き入れます。当時ニューヨーク以上に閉鎖感のあった彼らに大箱ディスコという「日常の抑制から逃げ出す場所」を提供していったのでした。やがてゲイ達からも愛されていく“Tsubaki House” は、一気に東京でもニューヨークともシンクロした新しい時代のカルチャーを生み出していく事となります。ファッション性にも富んでいた彼らの影響で、やがて“Tsubaki House”は音楽のみならず、DCブランドと呼ばれた、JUN、BIGI、NICOLEなどのブランドが一斉に伸びていく時代を背景に、ファッショナブルな流行の発祥地としてファッション業界をも巻き込むシーンの中心となっていきました。東京のディスコにシーンと呼べるものが次第に出来上がっていきました。

1975年には「全国ディスコ協会」が発足します。設立者は“Embassy”の店長でもあり、ダンス・チーム「オール・ジャパン・ソウル・トレイン・ギャング」を組み、その振り付けもしていた日本のソウル・ミュージック界の重鎮、ドン勝本。協会は各地のディスコやチャートの紹介などを掲載した初の専門的な情報誌であった月刊小冊子「ギャングスター」を発行、イベントやダンス・コンテストなども主催し、70年代のディスコ業界の底上げに役割を果たしていきます。1976年には渋谷に“Black Sheep” がオープン。

この時代、1975年〜1976年を日本の第一次ディスコブーム、1977年〜1979年を第二次ディスコブームと細かく分けて語る人も少なくないようです。そうした変遷をまず音楽から探ってみます。
まず1976年のディスコ・ヒットというと

KC & Sunshine BandShake Your Booty
The MiraclesLove Machine
Wild CherryPlay That Funky Music
The ManhattansKiss And Say Goodbye
Andrea True ConnectionMore, More, More
Ritchie FamilyThe Best Disco In Town
The SylversHot Line
Vicki Sue RobinsonTurn The Beat Around
Walter MurphyA Fifth Of Beethoven Midnight Special
The Trammps Disco Inferno

あたりが良くプレイされていたようです。一見して全てがアメリカからのディスコ・ヒットの輸入曲だったという事が挙げられると思います。マンハッタンズのスロウ・ナンバーがヒットしていたあたりはチークタイムが人気だった日本の当時のフロアを思い起こさせますね。 ’76年とは他にはどんな時代だったかというと、『ブロックくずし』というアーケードゲームが喫茶店に登場し、1978年登場の『スペース・インベーダー』の大ブームへの足がかりとなる、100円玉を持ってゲームをやりに喫茶店に通う時代の幕開きの年でした。歌謡界的には前述の阿久悠/都倉俊一コンビが手がけた新たなダンス歌謡コンビ、ピンク・レディーが1976年にデビュー。デビュー時にはキワモノ扱いされた激しくセクシーなダンスが、その健康的なイメージもあって、あっという間に子供達に真似され大ヒット。オリコンで連続9曲が一位に、10曲が連続してミリオンセラーになるという昭和のモンスター・アイドルとなっていき、ダンス歌謡の歴史を刷新していきます。
ではそんな時代、1977年の東京のディスコ・ヒットを挙げてみます。

The EmotionsBest Of My Love
Hot BloodSoul Dracula
Boney M.New York City
HeatwaveBoogie Nights
Amanda LearQueen Of Chinatown
Chic Le Freak
Santa EsmeraldaDon’t Let Me Be Misunderstood
Thelma HoustonDon’t Leave Me This Way
D.D. Sound1234 Gimme Some More
BaccaraYes Sir, I Can Boogie
The FloatersFloat On

このタイミングで早くも日本独自のヒット・チャートも出来つつあったことを感じます。ボニーM、シック、テルマ・ヒューストンなど、今までのアメリカからのビッグ・ヒットに加え、フランスの企画的バンド、ホット・ブラッドの「Soul Dracula /ソウル・ドラキュラ」や、ヨーロッパの人気モデル、アマンダ・レア、スペインのバカラなどヨーロッパからも一気に踊れる曲をインプットしてきていた事が分かります。(やはりスロウ・ナンバーのフローターズの曲チーク・タイムヒット)。

そして1978年で区切りたくなる大きな変革を生んだ映画、世界中にディスコを蔓延させた大ヒット映画「サタデー・ナイト・フィーバー」が日本でも封切られ第二次ディスコ・ブームを迎えます。
「サタデー・ナイト・フィーバー」はニューヨーク同様日本でも一大ヒットとなり、日本で映画が封切られた78年には新宿や六本木だけでなく、渋谷、上野、池袋、吉祥寺などの繁華街でも一気に無数のディスコが開業した年となりました。

1978年はそうした機運を受け、音楽のチャートにもディスコ・ヒットが名を連ねます。アメリカから1年遅れてリリースされた「サタデー・ナイト・フィーバー」のサウンド・トラックは洋楽でかつ二枚組にも関わらず、’78年にオリコンのアルバム・チャート1位に。この年の他の1位のアルバムはというと、さだまさしの「私花集」、アリスの「ALICE VI」、松山千春の「歩き続ける時」、キャンディーズの解散コンサートのライブ盤「キャンディーズ ファイナルカーニバル プラス・ワン」、矢沢永吉の「ゴールドラッシュ」。いかに「サタデー・ナイト・フィーバー」のサウンド・トラックが1位を獲得したという事が、革新的な事だったのかが分かると思います。またキャンディーズの解散コンサートのライブ・アルバムは3枚組でしたが、その片面を丸々使って当時のバックバンド、MMP(後のスペクトラム)の演奏による洋楽カバーが収録されていましたが、その選曲にもクール・アンド・ギャング(オープングSE)やアース・ウィンド・アンド・ファイヤー、ワイルド・チェリーらのディスコ・ヒットが取り上げられていた事も、ディスコとその音楽がいかにお茶の間レベルにまで浸透していたのかが分かります。続いて沢山のディスコ・ヒットがシングル単位でも生まれていき、次第にそのチャートは日本固有のカルチャーをも生んでも行きます。

真っ先に牽引役を果たしたがスエーデン出身の男女2名ずつの4人組、アバ。1977年のシングル、「Dancing Queen」は35万枚(’77年4月のオリコン19位)、「Gimme! Gimme! Gimme! 」は23.5万枚(’79年11月の17位)のヒットに。前年からヒットし続けたサンタ・エスメラルダの「Don’t Let Me be Misunderstood / 悲しき願い」は’78年2月にはオリコン7位になります(通算37.1万枚)。’78年3月には「サタデー・ナイト・フィーバー」のアルバムからヒットしたビージーズの「Stayin’ Alive」が21.6万枚売り上げ、オリコン19位。同じ月にアース・ウィンド・アンド・ファイヤーの「Fantasy /宇宙のファンタジー」が17.4万枚売り上げ、22位。西ドイツ(当時)のディスコ・プロジェクトであったアラベスクのシングル、「Hello Mr. Monkey」は38.8万枚売り上げ、’78年4月にオリコン8位に。78年6月にはビージーズのさらなる「サタデー・ナイト・フィーバー」からのシングル、「Night Fever / 恋のナイト・フィーヴァー」が37万枚売り上げ、オリコン4位というように毎月ディスコからヒットが生まれていきました。イギリス出身の3兄弟のビージーズは、本来独特のハーモニーが魅力の甘いポップス・タイプのグループで「Massachusetts」や映画「小さな恋のメロディ」の主題歌「Melody Fair」のヒットなど’60年代から活躍してきたグループでしたが、1975年の芸能生活20周年記念アルバム『メインコース』からシングルカットされた「ジャイヴ・トーキン」、「ブロードウェイの夜」がディスコ・ブームに乗り、全米大ヒットしたタイミングでの「サタデー・ナイト・フィーバー」での起用ということもあり、’78年の3月には携わった4曲が上位5位にランクイン、’77年の最終週から翌’78年の8月までの32週に亘り、携わった楽曲が常に1位の座を独占というビートルズに匹敵する一大ブームとなりました。

そのブームはさらに加速していき’80年にはノーランズの「I’m in the Mood for Dancing /ダンシング・シスター」が1位になり、なんと67.4万枚というビッグ・ヒットになります。アメリカからの直球ディスコ・ヒットだけでなくアバ、アラベスク、ノーランズといった後にキャンディ・ポップと呼ばれる、ヨーロッパの企画モノ的ディスコ・グループがこぞって日本で大ヒットしていった事は(ドイツ勢が多いことも含め)、後のユーロビート・ブームへ続く日本ディスコ史の流れをしっかりと感じ取ることができます。当時日本でリリースしていたキャンディ・ポップのグループを上げておきます。

スエーデン出身 : アバ
西ドイツ出身 : アラベスク、ボニーM、ジンギスカン、バカラ、ヴェロニカ、パピヨン、グームベイ・ダンス・バンド 、ア・ラ・カルト、チェリー・レイン、アンジェリ(出身はエチオピア)
イギリス出身 : ノーランズ(アイルランド出身)、ドゥーリーズ
イタリア出身 : D.D.サウンド、ラ・ビオンダ
ベルギー出身 : エミリー・スター・エクスプロージョン、ガーネッツ
オランダ出身 : ドリー・ドッツ、シャンペーン、ドリス・ディー&ピンズベイブ、メイウッド、ベルヴュ
ハンガリー出身 : ニュートン・ファミリー
アメリカ/フランス混成 : サンタ・エスメラルダ

本当に沢山のキャンディ・ポップ・グループが日本デビューしていきました。ヨーロッパ出身以外の変わり種としては、国内のディスコの歴史とは切っても切れない国、フィリピンの出身、パッショナータというグループがヒットしたり(シングル「Himiko / 卑弥呼」は79年に9万枚のセールス」、アルゼンチン出身のトリックス(「Just Wanna Dance Tonight/Do・Ki・Do・Ki・センセーション」は1981年の6.6万枚のセールス)、日本企画でドイツに制作を依頼し作ったコズミック・ギャル(ピンク・レディーのカバーでデビュー)、全くの日本企画/制作のマルコ・ポーロ(シングル「Dschinghis Khan/ジンギスカン」は’79年に10万枚のヒット)まで百花繚乱の時代でした。ちなみにキャンディ・ポップという言い方も日本特有のもので、1960年台後半アメリカ発祥の、子どもでも口づさめるような親しみやすいポップなサウンドという意味を持つ、バブルガム・サウンドを真似して作りだした造語と言われています。

マルコ・ポーロもその一つでしたが、そうしたブームを背景に日本側もディスコ市場に向け、各レコード・メーカーこぞってアプローチし始めました。もちろんそれまでも特に70年代の歌謡曲はフィリーソウルやディスコ・ミュージックに強く影響を受けた曲を作ってきていました。先述したキャンディーズにも今でもNu Disco市場で人気な曲もありますし、人気を二分した前述のピンク・レディーももちろんその独特のダンスと切り離せないヒット曲ばかりでした。
中でも’60年代後半のグループ・サウンド時代から多くのビッグ・ヒットを生み出してきていた作曲家の筒美京平は

浅野ゆう子セクシー・バス・ストップ
桜田淳子リップスティック
平山三紀熟れた果実
南沙織(Cynthia名義)- ゲット・ダウン・ベイビー
優香胸さわぎ
岩崎宏美センチメンタル
山内恵美子太陽は泣いている
麻丘めぐみ夏八景
郷 ひろみ君は特別
石野真子日曜日はストレンジャー

など当時の人気アイドルたちに明らかにソウル/ディスコの影響下の曲も数多く書き下ろしていました。またアメリカのフィリーソウルの人気グループであるスリー・ディグリーズに「にがい涙」という曲を書き下ろします(安井かずみ作詞の日本向けの日本語作品)。また自身でも1976年にDr.ドラゴン&オリエンタル・エクスプレスという匿名のディスコ・ユニットを作り(メンバーは当時既に人気のスタジオ・ミュージシャンだった後藤次利、鈴木茂、林立夫、矢野顕子)、後に浅野ゆう子にカバーさせる「Sexy Bus Stop / セクシー・バス・ストップ(’76年の18.9万枚を売り上げ25位)」、「Hustle Jet(’76年に5.3万枚、46位)」などのヒットを生んでいます(筒美京平は大ヒットを生み続け、作品の総売上枚数が一位の作曲でもありましたが惜しくも2020年コロナ禍に故人と)。

To Be Continued