The History of the Disco (国内編) Vol.3

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The History of the Disco (国内編) Vol.3

 

同様の国産匿名的ディスコ・ユニットには、後にビーイングで時代を担う長戸大幸や織田哲郎が参加していたスピニッヂ・パワーも、’78年にシングル「Popeye the Sailorman/ポパイ・ザ・セーラーマン」で16.4万枚のヒットを生みました。日本人ディスコ・プロデューサー、Satoshi “Hustle” Hondaと、後に人気ソング・ライターとして名を馳せる林哲司が’78年に組んだイースタン・ギャングは国内だけでなくヨーロッパやカナダでもリリースした輸出グループともなっていましたし、同じくSatoshi “Hustle” Hondaのディスコ・プロジェクト、ファンキー・ビューローの「Clap Oニューヨークour Hands Together」 も’77年に全国各地のディスコでヒット、’78年には菊田隆彦率いるU-DO(United Disco Object)がプロデュ-スした、日本人とプエルトリコ人のハーフの坂井ひとみを中心としたプロジェクト、トミー・ザ・ビッチの「Give It To Me」も当時の人気テレビ・ドラマ沖雅也主演「俺たちは天使だ!」で使用されヒットしました(トミー・ザ・ビッチはその後も探偵物語、大都会PARTIII、プロハンターなど人気のアクション・ドラマで頻繁に使用)。’80年に音楽評論家、吉岡正晴プロデュースの日本のスタジオ・ミュージシャンとアメリカの黒人シンガーを起用して制作したディスコ・プロジェクト、ミッドナイト・パワーズの「Dance It’s My Life」(アレンジはファンキー・ビューローも手がけた巣瀬哲生)は全米のディスコでもヒットするなど、実に多くの国産ディスコ・ソングも生まれて行きました。

このようにディスコ・ミュージックと日本の歌謡曲は親和性が非常に高く、それは戦後の日本にアメリカ経由のラテン・ミュージックがダンス・ミュージックとして押し寄せた時代の歌謡曲との関係とも非常に近いものを感じます。

さらに70年代〜80年代のディスコ・ミュージックの凄かったところはアメリカ発だけでなく、ジョルジオ・モルダーの一連のヒットを代表とする、UKやヨーロッパからも世界的なディスコ・ヒットが生まれたことでした。

またディスコにはさらに外人が日本語で歌うヴァージョンも多く見られます。エボニー・ウエッブ「ディスコお富さん」、「ディスコ佐渡おけさ」、「ディスコ花笠音頭」などはさらに歌謡界に影響を与え、三橋美智也までもが自作の「夕焼けとんび」を「The Tombi」とタイトルも変え、ディスコ・アレンジでリリースしています。浜村美智子の「バナナボート」、美空ひばりの「お祭りマンボ」、渡辺マリの「東京ドドンパ娘」と数々の国産ヒット曲を産んだ、戦後のラテン・ミュージック同様、ディスコ・ミュージックとはロックなどアーティスト性の強い音楽ではなく、国によってそれぞれの現地語に置き換えたヴァージョンや歌手自体を変えたカバー・ヴァージョンが違和感なく生まれ、曲自体もどんどんその地域と密着して変化して行く、そんな力を持ち合わせた音楽だということが分かります。そうした力を持ち合わせたディスコ・ミュージックだからこそ、‘70年代の筒美京平の一連の仕事や、ピンクレディーなどのアイドルを、’80年代のユーロビートをカバーヒットさせたウインクなどのJ-Popアイドル達を、そして安室奈美恵やマックスの時代へと繋がって行く昭和のダンス歌謡の道を生み、日本の歌謡史にも大きな影響を与え続けたのです。

また1979年には人気の頂点だったピンク・レディーをアメリカに送り込み、人気プロデューサーだったマイケル・ロイドを迎え現地制作した「Kiss in the Dark」は全米でも37位(国内でも11.1万枚売り、19位)のヒットになりました。さらにもう一つ、全く新しいダンス・ミュージックとして、ディスコから小学生にまでヒットしていったグループも「サタデー・ナイト・フィーバー」と同じ1978年にデビューしています。細野晴臣が高橋幸宏、坂本龍一と組んだイエロー・マジック・オーケストラ、通称YMOです。シンセサイザーとコンピュータを駆使した斬新なそのサウンドはダンス・ミュージックとして受け入れられ、後のテクノ / ニュー・ウェイヴ界にも大きな影響を与え、ワールド・ツアーも行い世界的に認知されたグループでした。細野晴臣が掲げた、マーチン・ディニーをコンピューターを使ってダンスミュージックに仕立てるというコンセプトも、ディスコからの視点で捉えると異国情緒=エキゾチックでジョルジオ・モロダー以降世界共通のダンス・スタイルとなりつつあったプログラミングされたダンス・ミュージックとして、各国のディスコが飛びつきやすかったのも当然のことだったと言えます。赤い人民服やテクノ・カットという彼らのファッションも斬新で、若者たちの間でもみあげを剃り落とすテクノ・カットも流行します。

そんな音楽自体も大ヒットし続けてきていた国内ディスコ市場、肝心なディスコはというと、六本木には六本木交差点から徒歩2分ほどにあったスクエアビル、新宿には歌舞伎町の東亜会館というディスコ・ビルと呼ばれる聖地までが誕生。スクエアビルでは地下2階から10階までの12階中、1Fと4Fを除く全てのフロアがディスコになり、NASAグループの“Nepenta”、“GIZA”など多くの人気店が生まれました。歌舞伎町には300坪を超える大型店が次々とオープン、2,000人を収容できるフロアを持つ“Big Together”、“Independent House”などの人気店の人々が詰めかけました。当時は週末ともなるとディスコを訪れる人だけで3万人いたとされ、芋洗状態とまで言われるほどの大混雑ぶりでした。2011年に亡くなられた谷本捷三は当時、スクエアビルの中に10軒のディスコを持っていたと言われ、バブル時代には60軒近いディスコを経営していたとまで言い伝えられていますが、真偽はともかく当時のディスコ・バブルぶりを彷彿とする話です。

1980年代前後、都内に存在したディスコをランダムに挙げてみます。

六本木
“Castel”      ※スクエアビルB2F
“Valentinos 〜玉椿 ※スクエアビルB1F
“Farmer’s Market” ※スクエアビル2F
“GIZAG” ※スクエアビル3F
“Samba Club” ※スクエアビル5F
“Studio One” ※スクエアビル 6F
“Chakras Mandala” ※スクエアビル7F
“Nepenta” ※スクエアビル8F
“Fou-Fou 〜Reve Japonesque” ※スクエアビル9F
“Kiwanis” ※スクエアビル10F
“Infinity”  ※店長:ニック岡井
“Leopard Cat”   ※「メビウス」跡地
“ザ・ビー”
“Rajah Court”(後にMaharajaチェーンを築くNOVAグループ)
“With”
“エリゼマティニオン”  ※デヴィ夫人によりオープン
“Xanadu”
“Queue”
“JESPA”
“Mebius”
“Lexington Queen”
“Nirvanal / ナバーナ”(旧“Xanadu”)
“Climax”
“The Pacha”

新宿
“Canterbury House BIBA” ※東亜会館3F
“Canterbury House GREECE” ※東亜会館4F
“Big Together” ※東亜会館4F
“CINDERELLA” ※東亜会館5F
“Independent House” ※東亜会館6F
“GB-Rabbits” ※東亜会館7F
“Circus Circus” ※東亜会館7F
“Tomorrow USA”   ※東亜会館7F
“Apple House”   ※歌舞伎町
“Black Sheep”      ※歌舞伎町
“チェスターバリー” ※歌舞伎町
“Milky Way” ※歌舞伎町
“Crazy Horse” ※歌舞伎町
“Independent House 歌舞伎町店” ※歌舞伎町
“Scat” ※歌舞伎町
“Hello Holiday”  ※東宝会館4F
“Xenon”  ※東宝会館4F
“One Plus One”  ※東宝会館6F
“New York New York”
“Pop Corn”
“Boogie Boy”
“Radio City”
“ゲット”
“スキャット”
“ステージィ”
“Byblos”

赤坂
“Mugen”
“White House”
“Manhattan”
“Bootsy”

西麻布
“3.2.8”
“Tommy’s House”

やはり六本木と新宿ではプレイ・リストや踊り方も随分異なっていて、前述のオリコン・ヒットにまでなった曲などメジャーなディスコ・ヒット中心で踊る新宿に比べ、六本木はアメリアからのリアル・タイムのファンクやテクノ以降のロックもプレイされていました。

1980年頃の六本木のディスコでプレイされていた曲です。

Brothers JohnsonStomp
Con Funk ShunGot To Be Enough
Ray Parker Jr. &RadioIt’s Time To Party Now
Jermaine JacksonLet’s Get Serious
BlondieCall Me 
GQStanding Ovation
Michael JacksonOff The Wall
Average White BandLet’s Go Round Again
The WhispersAnd the Beat Goes On
Dazz Band – Let it whip

1979年頃には、そうした巨大ディスコとまた違った新たなブームがまず六本木から作られて行きます。’70年代後半辺りから話題となっていったサーフィン・ブームにあやかり、サーファー・ファッション専門誌、ファインが誕生、同様にこの頃創刊され人気のカルチャー誌となったポパイや女学生の間で人気だったJJなどで矢継ぎにサーフィンが取り上げられて行き、あっという間に若者たちの間にサーファイン・ブームが到来しました。サーフィンは自ずとハワイアン・トラッドを取り入れたそのファッション自体もブームとなり、次第にサーフィン自体はやらないにも全身サーファー・ファッションで身を固める、陵サーファー(シティ・サーファー)と呼ばれる層が登場して行きます(ファイン少女、ポパイ少年、JJガールなどとも呼ばれました)。男女ともスポーツ系のブランド服に身を包み、日焼けサロンで体を焼き、男は髪をオキシフルで脱色、女の子はブルーのアイシャドウにサーファーカット、そんな陵サーファー達がこぞってディスコに集い合うようになり、やがてディスコの景色を変貌させて行くほどの一大サーファー・ディスコ・ブームが到来しました。やはりこの時代でもディスコという場所は、リアルタイムに同様の価値観を持ち、そうでない他者や日常から逃げ込み、楽しみ合う場所として機能していたのです。

このブームは実はそれでまでディスコの流れを大きく変えるものでもありました。ニューヨークと比べ表層化したマイノリティ層が見えづらい東京ではディスコには疎外感を持つ地方出身者や不良少年少女=いわゆるヤンキー系が集い出す場所でした。それが次第に娯楽の場として一般のサラリーマンまでを巻き込むブームになっていったのが’70年代後半。ところがサーファー・ディスコはそうした歴史とは相容れないお嬢さま、お坊っちゃま系の私学生や若いOL層、小洒落たサラリーマン達がメイン層となり、そうしたディスコ・ブームの裏で’79年頃から独自に盛り上がって行ったのです。ポスト団塊の世代(1952~1957年生まれ)と呼ばれた若者たちがこの頃、大学生になっていき、熱すぎた団塊の世代への反動とも言える、政治論議には関心が無い「しらけ世代」や「ノンポリ」と称された若者になっていたのです。高度経済成長期に育ったそうした若者たちは、消費は豊かさと幸せの象徴として育ってきた為、新しい遊びやファッションにもいち早く飛びつき、やがてはバブルと進みこの国の経済を回し始めていたのです。彼らは踊り方もそれまでのディスコでの集団ステップ・ダンスという歴史を覆す、首と肩と腰の後ノリ程度のシンプルなダンスで、各々が思い思い楽しむフリーダンスに取って代わりました。次第にディスコ側もトロピカル・ドリンクを置き、店内もトロピカル・ムードの装飾になって行きます。音楽もファンク系から同様に’70年代後半から流行り始めていたクロスオーバー/フュージョン、そしてAORという、やはり洒落たムードのダンス・ミュージックが人気となります。その頃では東京でもすっかりDJ用の12インチ・レコードが一般的になり、そうした専門レコード店もあちこちにできてきました。

サーファー・ディスコで人気のあった曲を羅列してみます。

A Taste of HoneyBoogie Oogie Oogie
JuniorMama Used To Say
GQDisco Nights
Kool & The GangLadies Night
ShalamarTake That To The Bank
StargardWear It Out
Luther VandrossNever Too Much
Stevie WonderMaster Blaster
Phyllis HymanYou Know How To Love Me
Narada Michael WaldenI Don’t Want Nobody Else
Alton McClain & DestiIt Must Be Love
The Sugar Hill GangRapper’s Delight
Tom BrowneFunkin’ For Jamaica
George Duke Shine On
The CrusadersStreet Life
George BensonGive Me The Night
Grover Washington Jr.Just The Two Of Us
Pablo CruiseLove Will Find A Way
Kalapana Black Sand
Hall & OatesKiss On My List
Bobby CaldwellWhat You Won’t Do for Love
Doobie BrothersWhat A Fool Believes
Rod StewartDa Ya Think I’m Sexy?
Kenny Loggins & Steve PerryDon’t Fight It
The Rolling Stones Miss You
山下達郎Funky Flushin’
笠井紀美子Butterfly

曲を聴いていくとアメリカからの直球ディスコ・ナンバーもあるもののそれまでのディスコ・ヒットとは傾向や質感が異なっているのが分かると思います。フュージョンやAORの他、「サタデー・ナイト・フィーバー」のヒット以降こぞって生まれたロック系からのディスコ・ヒット狙い曲やさらにAOR/フュージョン系の国産アーティストの曲もプレイされていくようになり、益々キャンディ・ポップも人気の大箱パーティとは異なる独自のムードが作られて行きます。集団で汗をかいて踊るという行為よりもより自分達のムードに見合った最先端のヒット曲で身体を揺らすという、踊れるかというポイントではなく、音楽自体のムードを最優先させていた様子を感じられるかと思います。

震源地の六本木では’70年代の“Xanadu”時代からシティ・サーファーやニュートラ族を集客させて来ていた“Nirvanal(元Xanadu)”や“Leopard Cat”、“Magic”、“Rajah Court”などが、やがて渋谷では“Candy Candy、新宿でも“B&B”、“Puka Puka”などが人気のサーファー・ディスコとなり、ブームはさらに広がって行きました。

もちろんディスコの全てがサーファー・ディスコになった訳ではなく大衆的な巨大ディスコも以前栄えていました。次第にディスコは多様化していったと言えると思います。’70年代後半には大箱はキャンディ・ポップのヒットにまで行き着き、あまりにも分かりやすく一般的になってしまったブームの反動ということもあったと思います。逆に新宿の大型ディスコでは大勢で輪になってステップ・ダンスを踊る行為が他の一般客に迷惑をかけるとの理由で禁止され、そうした日本のディスコ・カルチャーを彩った、集団での揃いのダンス・パフォーマンスはその場所を路上に求め、原宿の歩行者天国で話題となる竹の子族となって行きます(竹の子族も’80年にはチームは約50グループ、メンバーがおよそ2,000人になって行き、ギャラリー含め毎週日曜になると10万人が歩行者天国に集まるほどのブームでした)。

また当時のディスコではサーファー・ディスコとはさらに別に、音楽自体を第一に重きを置いたブラック・ディスコと呼ばれたヴェニューもありました(一部の音好きサーファー・ディスコ連中も通っていました)。六本木の“JESPA”や“Queue”などが代表格で、ザップ、キャメオ、ブリック、スレイブ、サンといった当時アメリカで人気のファンク・バンドの最新曲から、シュガーヒル・ギャング、グランドマスター・フラッシュなど生まれたばかりのHipHopがプレイされる、70年代のソウル・バーの文化を受け継ぎ、今日の音楽やジャンルに特化したパーティを基本とするクラブ・カルチャーに繋がるディスコも健在でした(HipHopは1982年に映画「ワイルド・スタイル」の公開にも後押しされ、最新ダンス・ミュージックとして、グラフティやファッション含め広がって行きます)。

同様に前述の新宿テアトルビル5Fに入っていた“Tsubaki House”や2丁目の“Fullhouse”はニュ-ウエ-ブ系ディスコと呼ばれ、“Tsubaki House” で毎週火曜日に行われるロンドン・ナイトのDJ大貫憲章などフリーランスの人気DJや選曲含め独自のパーティが生まれ、ロンドン・ファッションに身を包んだ文化服装学院、セツ・モードセミナー、モード学園、山野愛子ビューティースクールなどを中心とするエッジの効いた若者たちやミュージシャンを始めとする芸能人が集まっていました。“Tsubaki House”で開催されたファッション・コンテストで優勝した藤原ヒロシがその賞金でロンドンに行き、マルコム・マクラーレンやヴィヴィアン・ウエストウッドと出会い・・・で始まる藤原ヒロシ物語もこの場所から始まりでした。

ロンドン・ナイトのプレイ・リストの一部です。

The ClashLondon Calling
Sid ViciousMy Way
Adam And The AntsGoody Two Shoes
John Thunders & The HeartbreakersBorn To Lose
Blue ZooCry Boy Cry
New OrderBlue Monday
PigbagPapa’s Got A Brand New Pigbag
The SpecialsLittle Bitch
Dire StraitsSultans Of Swing
Big CountryIn A Big Country
Flux of Pink IndiansTube Disasters
SadeSmooth Operator

そんな多様性も含め、盛り上がりのピークを迎えていた日本のディスコ・カルチャーに水を浴びすような大きな社会的事件が起こります。

To Be Continued