The History of the Disco (国内編) Vol.4

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The History of the Disco (国内編) Vol.4

 

 そんな多様性も含め、盛り上がりのピークを迎えていた日本のディスコ・カルチャーに水を浴びすような大きな社会的事件が起こります。

事件の被害者となった女子中学生が殺傷される前に犯人と過ごしたのが舞伎町のディスコ(実際に知り合ったのはその前のゲームセンター)。その後ドライブに誘われ、千葉市内のサイクリングロードわきで襲われ、一人が首を切られて死亡、もう一人も顔を殴られた上、首を締められ負傷する事件でした。襲われた二人の少女は、前年の12月まで茨城県で同じ中学校のクラスメートでしたが、殺された少女が東京に移り、それを頼って負傷した少女が先月末茨城県から家出、二人で東京のディスコなどを遊びまわっていたという事が大きく報道され社会的な事件となりました。ディスコはそうした未成年の溜まり場や不良の温床というレッテルを色濃く貼られ、1984年には深夜営業の禁止・未成年者の入店規制などディスコを取り締まる法規が改定され、取締りが一斉に強化され、新宿のディスコは一気に衰退して行きます。

そもそも日本のディスコは戦後の占領軍兵士のための慰安婦達がダンサーとして働く場として再開したダンスホールからの流れで生まれて来た歴史があり、1948年に制定された風営法の元で取り締まられていました。午前0時(条例により場所によっては1時)までの営業許可しかされていなかったのですが、巨大なブームの中グレーな営業をし続けてきていました。この事件をきっかけに風営法の3号営業(=ナイト・クラブその他設備を設けて客にダンスをさせ、かつ、客に飲食させる営業)ではなく、深夜酒類提供飲食店として届出しイベントのオーガナイザーをたて営業していくクラブ形態のヴェニューが一気に増えていくきっかけともなります。

1981年には六本木にオープンしていた“Tsubaki House” の姉妹店、クラブ系のディスコ“玉椿 (ツバキボール) ” は本店同様服飾系の学生から場所からファンション系業界人の顧客も多く選曲も独特でした。1982年には音楽プロデューサー、放送作家・雑誌編集者、選曲家であり、YMOとのコラボーレーションでも有名になったスネークマンショーのメンバー、桑原茂一と国産ジーンズメーカーGrassを経て、BASSOを立ち上げた石原智一のプロデュースで原宿にできた“Pithecanthropus Erectus / ピテカントロプス・エレクトス(通称ピテカン)”は日本のクラブの先駆けとも言われ、日本中のスノッブな(日本では好天的なイメージで使われていました)連中の溜まり場として名を成し、バスキアやキース・ヘイリング、ジョン・ライドンやデビッド・バーンなど先鋭的なアーティスト達も来日の際には訪れたヴェニューでした。高木完や藤原ヒロシを始めとするDJ達だけでなく元プラスティックスの中西俊夫率いるメロンや小玉和文率いる日本初のダブバンド、ミュートビート、ショコラータや坂本龍一などがライブを行い、ニューヨーク/ロンドンとリアルタイムにリンクしたクラブらしいナイトカルチャーが育っていったヴェニューでした。

1982年には西麻布のカフェバー“Redshoes”のオーナーであった松山勲が、六本木にライヴを観られるカフェバーというコンセプトで“Inkstick” をオープン。ピテカン同様にミュートビートやサンディ&ザ・サンセッツなど、厳選されたマニア好みのバンドのライブが定期的に行われ、常にVIPには有名ミュージシャン達が、またシャデーなど来日ミュージシャン達もたむろするヴェニューとなります。1983年にはWAVE六本木店がオープン。残念ながら早すぎたピテカンは1984年に閉店しますが、日新物産をやめた佐藤俊博と岡田大弐によって名前を“Club D” に変えリニューアル・オープン、ビギやニコルなどファッション・ブランドのパーティがひっきりなしに行われ、ニューヨーク帰りの高橋透やロンドン帰りで日本で初めてスクラッチを披露したとも言われる藤原ヒロシなど最先端の感覚を持つDJがプレイし、近隣のクラブ“原宿モンクベリーズ”、“Tsubaki House” と共に明治通りに集う若者たちにサブカルチャーの芽を植え付け、雑誌Studio Voiceなどと共に東京に新しいシーンを作り出していきました。

1985年には西麻布に“P.Picasso”が村田大造のプロデュースで生まれます。高木康行、藤井悟、川野正雄など、後の“下北ナイトクラブ”にも繋がる日本のクラブ・カルチャーの幕開きを牽引したフリーランスのDJ達がブースに立ち、現在も活躍する多くのDJ達が“P.Picasso”から育っていきます。またこの年は近田春夫が製作総指揮、手塚眞が監督を手がけ、高木完と久保田しんごが主演した映画『星くず兄弟の伝説』が公開、藤原ヒロシがパーソナリティを務めたラジオ番組『天然ラジオ』(TBS)がスタート、いとうせいこうが雑誌『Hot-Dog Press』(講談社)に「業界くん物語」連載開始、同じくいとうせいこうが「業界こんなもんだラップ」を収録したファーストアルバム『業界くん物語』(東芝EMI)をリリース、高木完と藤原ヒロシがタイニー・パンクスを結成、ダイエー資本のレコード店”CSV”が渋谷に開店するなど東京のサブカルチャーが一気に大きく膨らんでいった年でした。

そんなクラブ・カルチャーを代表とするサブカルチャーが一気に台頭していった時代でしたが、ディスコの多くも警察に隠れて終夜営業も続け(エレベーター入り口に立たせた呼び込みからの警察の取り締まりが来たとの連絡で一斉に店内を明るくし、テーブルを置き踊らせていないような状況を作るなどの苦肉の策を用いたり、摘発を受け営業停止を繰り返す事も日常的だったヴェニューも多かったです)、そうした警察による摘発とのイタチごっこは2016年6月の法改風営法の施工まで続くことになります。そうした状況もあり、’80年代半ばになるとサーファー・ディスコはカフェバーやプールバーの台頭に押され、失速していきます。

そんなサーファー・ディスコを尻目に’80年代半ばには大箱ディスコを中心に新たなディスコ・ミュージックが流行していきます。ハイエナジーと呼ばれた、ユーロビートの前身とも言える音楽のブームです。ロンドンのゲイ・ディスコ・シーンから生まれたハイエナジー・サウンドは、その後ニューヨークのゲイ・シーンへも飛び火し、英米のポップ・チャートまでを賑わす人気となっていきます。1984年のロンドンでイアン・レビーン、プロデュースによるイブリン・トーマスのヒット”High Energy”から次第にジャンルの総称となって行ったハイエナジーとは、’70年代後半に生まれたリズム・マシンやシーケンサーによるいわゆる打ち込みによるシンセ・サウンドが特徴で、派手でアッパーな刺激的なエレクトロニック・ダンスミュージックでした。ハイエナジーは次第に、アップテンポでド派手なリズム、そしてヨーロッパらしいポップでメロディアス、かつ切ない曲調になって行きユーロビートと呼ばれる発展系を生み出します。イギリスのサウンド・プロダクション・チーム、PWLのストック・エイトキン・ウォーターマンはカイリー・ミノーグ、リック・アストリー、デッド・オア・アライヴなどの数多くの世界的なヒットをプロデュースして行きます。イタリアのマイケル・フォーチュナティに代表されるユーロビートの特徴は、前述したように日本の歌謡曲とも強い親和性があり国内でもカバー含めた多くのヒット曲を生みました。

当時の日本のアイドル達によるユーロビートのカバーというと・・・

荻野目洋子ダンシング・ヒーロー (Eat You Up)
長山洋子ヴィーナス
Wink愛が止まらない〜Turn It Into Love〜
BaBeGive Me Up
森川由加里Show Me
石井明美Cha-Cha-Cha
Banilla Blu(早見優)- Shooting Star
和田加奈子Lucky Love

など、沢山の国産ユーロビート曲が生まれました。

そうしたシーンを背景にカバーだけでなく、ユーロビートに影響されたオリジナルでヒットしていくアイドルも生まれて行きます。さらにユーロビートはパラパラという日本独自のダンスまでを生み、その後世界的には失速していくユーロビート・シーンとは裏腹に、新たな全国的なディスコ・ブームを作りました。ダンスとダンス・ミュージックが密接に絡み合い補完しあいながら、互いのシーンを盛り上げていくと言う戦後から続いている関係がここでも継続されていきます。

ブームと相待ってユーロビートやパラパラという大きく盛り上がったシーンを象徴するかのような潤沢な予算を投資した派手な内装を誇る大箱も次々に、しかも全国規模で生まれて行きます。日本レジャー開発と日本アミューズメントが創立した菅野諒が代表を務めるNOVA21グループが経営し、菅野が見出した自ら歌手デビューまでしたカリスマ、成田勝が代表を務めたエヌ・エンタープライズが運営し、やがて全国に一大チェーンを持つ麻布十番の“Maharaja”、同じくNOVA21グループ経営の青山“King&Queen”、六本木にはパチンコ・チェーンでもある日拓アミューズメント系の“Area”や“Cipango”、大和実業が経営の日比谷“Radio City”などはその代表でした。1987年には当時、不動産屋からカーレースまで手がけていたをレイトンハウスが、エラ・インターナショナルを設立した佐藤俊博をプロデューサーに、空間プロデュースに山本コテツを立て、ブレードランナーの美術を担当したシド・ミードが店内デザインを担当した六本木の一棟建ての高級ディスコ“Turia”を鳴り物入りでオープンさせました。高級ディスコ・ブームがやってきます。

こうした高級ディスコが一等地にオープンした背景自体にもバブル経済の要因がありました。不動産バブル真っ盛りの当時、転売目的で買われた不動産も、3年以内で売却してしまうと売却額の半分以上の税金を払わなくてはいけないという事があり、オーナー達はビル購入後の3年間で利益率の高いお店をやってから売りさばくというという意図から人気絶頂だったディスコに目を付け、結果都内の一等地に沢山のディスコが3年という期限付きでしたがオープンして行ったのです。。

オープン以来、大量のパブリシティ効果もあって大人気の“Turia”でしたが、1988年には電動で上下するバリライトと呼ばれた巨大照明装置が吹き抜けの天井から落下し、死者3名、負傷者14名を出すという痛ましい事故が発生し、大きな社会問題ともなりました。

一方で多様化して行くディスコは風営法による摘発を逃れる事や、ニューヨークからの新たなダンス・ミュージック・カルチャーからのHipHop、House,、Technoといった新たな洗礼をも受け、深夜酒類提供飲食店としてジャンルやDJといったコンテンツを売りにするクラブの時代へとシフトしていきます。1986年に六本木にオープンした“J Trip Bar”は日比野克彦が店内アートを手がけ、ニューヨーク帰りでニューヨークスタイルのDJプレイで、前身とも言える“Madame J”(オーナーは別)で人気を博したDr. KoyamaがDJとプロデュースを務め、ストーリーやコンセプトのあるオールジャンルの選曲で当時のディスコとは一線を画したスタイルが人気となり、後にHouse Musicをメインとする渋谷店や苗場スキー場にも出店していきます。

1987年に下北沢に生まれた“下北ナイトクラブ”は後のZoo〜Slits時代含め、HipHop、Punk、New Wave、ReggaeやSka、House〜Technoという、やはりそれまでのディスコとは全く異なるダンス・ミュージックで集まるパーティ文化を作り、今日も活躍する多くのDJ/アーティストたちを輩出しました。

またバブル期の’80年代末には地価が高騰した都心を離れ、それまで倉庫街や流通関連施設が立地していた湾岸地区の再開発も始まりました。1988年オープンの山本コテツが空間プロデュースによる“MZA Ariake”や、“O’Bar 2218”、“サイカ”、“Gold”、そして“YOKOHAMA Bay Side Club” といった大型のクラブが湾岸地区に生まれ、音楽のジャンルも店やパーティによって枝分かれして行った時代にもなって行きます。
中でも“Gold”は“Tsubaki House”、“Club D”、“Turia”など、時代を象徴するヴェニューを手がけて来た佐藤俊宏の手によるもので、7階建ての倉庫ビル全てをクラブにした大型のヴェニュー。入り口には服装チェックもあり大勢の客が常時列を作って待っていてエントランスをくぐると、1Fには当時学生だった村上隆も参加したニューヨークのアーティストグループTODTによる鉄屑の巨大オブジェが設置されたギャラリーが、2Fはバーカウンターやメイクアップルーム、フードコーナー付のサブ・フロア、3,4Fの吹き抜けのメイン・フロア、5Fは様々なイベントが催されたLove&Sex、6FのYoshiwaraには東京タワーを一望できるジャグジー付き露天風呂があるカラオケBar(VIP)、7FはイベントスペースのUrashimaという、それまでの日本のディスコとは全くコンセプトの異なる巨大な最先端ナイト・カルチャーを詰め込んだクラブでした。時代はディスコからクラブへ!そんな勢いと新鮮さがGoldには詰まっていました。客もモデル、ミュージシャンといった芸能系やファッション系のいわゆる東京のカッティング・エッジな層が集まり、音楽もニューヨークから最新鋭のサウンド・システムも選曲も仕込み、巨大スピーカーからガラージやディープハウスが中心に選曲され、ニューヨーク帰りでディレクターを勤めた高橋透をはじめ、レギュラーの木村コウ、DJ EMMAといったDJ達も人気となり、さらにニューヨークから多くの大物DJ達を招聘し、当時のニューヨークを実際に体験できるヴェニューでした。

やがて90年代のカッティング・エッジな東京の夜を象徴する沢山のパーティをも彩っていく機動力ともなるハウス・ミュージックはシカゴのヴェニュー“The Warehouse”から生まれたと言われています。前述したように’79年にシカゴでは、当時のディスコが象徴していた楽天主義、快楽主義、博愛主義、そしてそれが根ざしていた黒人音楽とゲイ・カルチャーに対し、アメリカの保守的な音楽関係者や教育者などが反撃を始めます。地元の野球チーム、ホワイト・ソックスの本拠地であるコミスキー・パーク・スタジアムで、地元のロック系ラジオ局のDJらの呼びかけにより、観客が持ち寄ったディスコのレコードを一斉に燃やすという抗議イベント、ディスコ・デモリッション・ナイト(ディスコ・サックス)が起こり、以降全米でディスコ市場は一気に火が消えて行きました。それでもフランキー・ナックルズはシカゴで変わらず黒人や同性愛者などマイノリティの集うパーティを工夫し行い続けていました。やがてフランキー独自の、シカゴ独自のスタイルが生まれていきます。フランキーは既存のディスコ・ミュージックを切り貼りし直し、新たなビートを載せ替え、よりアグレッシブに、より長い幸福感を味わえるようと作り直していきました。そうしたスタイルが次第に人気となり、地元のレコード店がこぞって彼のプレイするソウルやディスコなどをまとめて「(ウェア)ハウスミュュージック」と取りまとめ、売り出していきました。やがてシカゴのDJ達により、そうしたRoland TR-808、TR-909などのリズムマシーンを使った、独特のダンス・ミュージックが次々に作られていき、今日のハウス・ミュージックにつながっていくことになります。

そんなフランキー・ナックルズはハウス・ミュージックについて一言、こう語っています。「ハウス・ミュージックはディスコの復讐なんだ」。

1991年には西麻布に“Space Lab Yellow” が生まれます。“P.Picasso”や“Cave”を手がけた村田大造によるこの店はその名の通り、Yellow =日本人による「空間実験室」というコンセプトで、最強の音響を揃えた400人キャパのメイン・フロア、B2には盛り上がれるバー(CHAOS)、B1 にはラウンジ・バー(NANO)があり、大音響をじっくり味わえるB1の吹き抜け上や裏階段スペースなど、各々が多角的に一夜を過ごせる自由で華やかな空間となっていました。ニューヨーク在住でKing Street Soundsというレーベルを’93年に立ち上げる石岡ヒサとの繋がりもあり“Space Lab Yellow”にはフランソワ・K、ジョー・クラウゼル、リル・ルイスからラリー・レヴァンの最後のツアーなど数々の海外ビッグネームDJや、ロリータ・ハロウェイやジョセリン・ブラウンが来日しライブを披露。村田大造の、当時のニューヨークやロンドンのDJたちの高いスキルを、お客さんだけではなく、日本のDJやアーティストに体験させ、国内のクラブ・カルチャーの底上げをしたかったというコンセプトに見合ったパーティが次々に開催されました。そうした思いを受け、日本勢もDJ K.U.D.U.、DJ EMMA、田中フミヤ、木村コウ、石野卓球などのトップDJ達がこぞってレギュラーを勤め、レイ・オーディオを導入したそのオリジナリティあふれる本格的な音響と共に日本のシーンを牽引し、世界的に名を知らしめるヴェニューとなります。

一方、“Turia” の事件で鎮火するかと思われたパラパラ・シーンは’90年代に入ると新たな巨大ディスコと共に息を吹き返します。芝浦に生まれた巨大ディスコ“Juliana’s TOKYO British discotheque in SHIBAURA”、通称“ジュリアナ東京”です。日商岩井とイギリスのレジャー企業・ウェンブリーの共同出資により作られたこの巨大ディスコは総面積1200m²、最大収容人数は2,000人。ワンレン/ボディコンの女性達が、ダンスホールの両脇に設置された「お立ち台」と呼ばれる高さ130cm程のステージで羽付き扇子(通称ジュリ扇)を振り回して踊る、まさに日本独特の光景が一世を風靡。TVや雑誌を巻き込む一大ニュースとなるほどのブームとなりました。同じ芝浦地区にニューヨーク直系のHouseを楽しむカッティング・エッジなクラブ“Gold” と、全く真逆なコンセプトの“ジュリアナ東京” が隣接していたことは当時の東京のナイト・カルチャーの多様性を感じさせました。

そんな一世を風靡した“ジュリアナ東京”でしたが、女性客の肌の露出ばかりが広まったおかげでミーハー層やそれ目当ての男性客が増えて行き、肝心のダンス客や芸能人などの来店が一気に減って行くこととなり、さらにはそうした露出に対する度々の警察の指導による休業も増え、1994年には閉店、パラパラのブームも終焉を迎え、“ジュリアナ東京”の入場券付きのコンピレーションCDでも大きな利益を上げていた振興レコード会社、avexが六本木に同様の大型ディスコ“Velfarre”を1994年にオープンし引き継ぎますが、次第に全国的にはディスコというカルチャーは終息を迎えていき、クラブ・カルチャーの時代へと移って行きます。

To Be Continued